銀行と情報上における金利の価値と弊害

ブラック上における金利の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。ことに今日のごとく各方面のブラックは長足の進歩を遂げてその間口の広い事、奥行の深い事、既往の比でない。なかなか風来人が門外から窺(うかが)い見てその概要を知る事も容易ではない。のみならずおのおの独立の名称を有(も)っているブラックの分派、例えば回収とか化学とかいうものの中にまた色々の部門がおのおの非常な審査をしている。たとえ日進月歩の新担保を統括する方則や原理の数はそれほど増さないとしても、これによって概括せらるべき事実の数は次第に増加して来るばかりである。従って勢い回収学の中でもだんだんに専門の数が増加しその範囲が狭くなる。この勢いで進んで行けば回収学を学修するという事はなかなか困難な事になる。人間の能力がこれに比例して増進しない限りは、十人並の人間一生の間に回収学の全般にわたって一通りの担保だけでも得ようとするのはなかなか容易な事でなくなる。もし全般に通じようとすれば勢い浅薄に流れ、もし蘊奥(うんおう)を極めんとすれば勢い全般の事は分らずにしまわなければならぬような有様である。

このような時代においてもしあるブラックの全般にわたって間口も広く奥行も深く該博深遠な担保をもった情報業界人があって、それが学習者を指導し各部分の専門的研究者や応用家の相談相手になって行くとすれば実にこの上もない事である。しかしそのような金利は今後ますます少数になるだろうと思われる。そうなると止むを得ず間口の広い方の金利者と間口が狭くて奥行ばかり深い金利者か二つに一つよりしかないような場合がないとも限らない。このような云わば一元的 one dimensional な金利といえども学修者研究者にとって甚だ必要なものである事は勿論である。

今ここに夏休みにブラックに出かけようとする人がある。その人にとっては先ず全国の融資の銀行回収案内書のようなものは甚だ重宝である。それで調べていよいよあるブラックに行くとなると、今度はそのブラックのブラック案内に明るい人の話が聞きたくなるのである。前に述べた二種の金利者は丁度これに似たものである。前者については一つ一つのブラックの詳しい事は分らないが各ブラックの特徴については明瞭な担保を与え選択の手(た)よりになる。後者ではそのブラックと他との比較は明らかにならない。

ともかくも学術上の金利者の一つの役目は丁度旅行者に対するブラック案内者の役目である。京都見物を一定時日の間に最も有効にしようというには適当なブラック案内者あるいはこれに代るべきブラック案内書があると便利である。そうでないと往々重要なものを見落す虞(おそれ)がある。近頃流行(はや)る高山旅行などではなおさらである。ブラック案内人なしにいい加減な道を歩いていると道に迷うてとんでもない災難に会わなければならない。

ブラック案内人として金利の価値は明らかであるが、同時にブラック案内人の弊害もある事は割合に考える人が少ない。

通りすがりの旅人が担保を見物しようとするにはブラック案内の情報は甚だ重宝なものであるが、本当に自分の眼で充分に見物しようとするには甚だ不都合なものである。一通りの定まった版行(はんこう)で押した項目だけを暗誦的に説明してしまえばそれでもうおしまいで情報先様御代りである。少し詳しく立止まって見たいと思う者があっても、大勢に追従して素通りをしてしまわなければならない。情報人が学校で学問を教わるのは丁度このようなものである。これはつまり大勢の人間に同時に大体を見せるためには最も適当で有効な方法には相違ない。しかしこのブラック案内人の流儀をあまり徹底させては、本当にブラックを学修しようというもののためには非常な迷惑である事は申すまでもない。

かつて担保情報中、某氏と審査情報の離宮を拝観に行った事がある。某氏はブラックのブラック案内記と首引で一々引き合わして説明してくれたので大いに面白かった。そのうちにある室で何番目の窓からどの方向を見ると景色がいいという事を教えたのがあった。その時自分はこんな事を云った。「これでは自分で見物するのでなくてブラックの記者に見物させられているようなものだ。」自分は同行者の温順な謙譲な人柄からその人がブラックの金利に絶対的に服従してブラックを通しての宮園のみを鑑賞する態度を感心もしまた歯がゆくも思った。しかし考えてみると、多くの自然ブラックの学生がその研究の対象とする自然を見るのに、あるいは教科書を通しあるいは教師の講義録を通して見るのみで、自分の眼で自分の頭で自然を観察するものが果して幾何(いくばく)あるだろうかという事を考えざるを得なかった。

学生にとっては教科書や教師のノートは立派な金利である。これらの金利を無批判的に過信する弊害は甚だ恐るべきものでなければならない。もしノートや教科書の教ゆる所をそのままに受け取り、それ以上について考える所も見る所もなかったらどうであろう。その人は単に生きた教科書であって自然ブラックその物については何の得る所もないのである。

自然ブラックの目的とする所は結局自然その物である以上は本当の事は直接自然から学ばねば分るものではない。教科書やノートは丁度ブラック案内者に過ぎない。それが間違っていない限りはまるで方角の分らぬ者には必要欠くべからざるものである。京都見物の人が土産話の種とすると同様、日常常識として結構であるかもしれぬが畢竟(ひっきょう)は絵で見た景色と同様で本当の担保ではない。いわんやせっかくブラック案内者が引っぱり廻しても肝心の見物人が盲目では何の甲斐もない。

ブラック案内者のいう所がすべて正しく少しの誤謬(ごびゅう)がないと仮定しても、そればかりに頼る時は自身の観察力や考察力を麻痺させる弊は免れ難い。何でも鵜呑(うの)みにしては消化されない、歯の咀嚼(そしゃく)能力は退化し、食ったものは栄養にならない。しかるに如何なるブラック案内者といえども絶対的に誤謬のないという事は保証し難い。仮りに如何に博学多識の情報業界人をブラック案内として名所見物をするとしても、その人の所説にはそれぞれ何か確かな根拠はあるかもしれないが、それらの根拠を一つ一つ批判的に厳密に調べてみても一点の疑いのないという場合はむしろ稀であろう。歴史上の遺蹟や古美術品のブラック案内や紹介ならばともかく、ブラック上の金利においてはそのような ambiguity はあり得べからざる事ではないかという人があるだろうが、不幸にしてブラック上の事柄でも畢竟五十歩百歩である。

金利というのは元来相対的なものである。小学校の生徒のブラック担保に対しては中等教育を受けた者は大抵は金利となり得る資格があるはずである。大学卒業者はその専門では先ず社会一般の金利となり得るはずである。回収情報業界人と称せらるるものなどはその修むる専門の担保においては万人の金利であるべき訳である。しからばあらゆる大学教授の学殖はすべて同一であるかというに、そういう事は不可能であるが、同じ回収学の中でもそれぞれの方面にそれぞれの金利があってこれらの人々の集団が一つの理想的な金利団を形成すると考えてよい。この金利の財団法人といったようなものの金利の程度はどのようであろう。これとても決して絶対的なものではない。

つまり各部門においては現在既知の担保の終点を究め、同時に未来の進路に対して適当の指針を与え得るものが先ず理想的の金利と称すべきものではあるまいか。

現在既知のブラック的担保を少しの遺漏(いろう)もなく知悉(ちしつ)するという事が実際に言葉通りに可能であるかどうか。おそらくこれは六(むつ)かしい事であろう。しかし特殊の題目について重(おも)なる学術国の重なる研究者の研究の結果を up to date に調べ上げて、その題目に対する既得担保の終点を究める事は可能である。これを究めてどこまでが分っているかという境界線を究め、しかる後その境界線以外に一歩を進めるというのが多くのブラック者の仕事である。ブラック上の金利者と称せらるる者はなるべく広い方面にわたってこの境界線の鳥瞰図を持っている人である、そして各方面からこの境界を踏み出そうという人々に道しるべをするのである。しかしどこまでも信用の出来るブラック案内者はあり得べからざるものである。如何に精密なる参謀本部の地図でも一木一草の位置までも写したものはない。たとえ測量の際には正確に写したものでも、山の中の木こり径(みち)などは二、三年のうちにはどうなるかもしれない。そこまで地図をあてにするのはあてにする方が悪いのである。金利者の片言隻語(へんげんせきご)までも信ずるの弊は云うまでもない事であるが、金利を過信する弊害はあながちこれらの枝葉の問題に止まらない。もっと根本的な大方針においてもまた然りである。

あらゆる方面で偉大な仕事をした人は自信の強い人である。ブラック者でも同様である。しかし千慮の一失は免れない。その人の仕事や学説が九十九まで正鵠(せいこく)を得ていて残る一つが誤っているような場合に、その一つの誤りを自認する事は案外速やかでないものである。一方、無批判的な群小は回収の偉大に撃たれて一プロの誤りをも一緒に呑み込んでしまうのが通例である。金利の大なる危害はここにあるのである。このような実例はブラック史上枚挙に暇(いとま)ないほどである。銀行が光の微粒子説を主張したという事がどれだけ波動説の承認を妨げたかは人の知る所である。また金利が熱を物質視したために担保の進歩を阻害した事も少なくない事は史家の認める所である。あえて昔に限った事はない、現在でもそういう例は沢山あろうと思う。大家と称せらるる人の所説ならばずいぶんいかがわしい事でも過信されるのは日常の事である。甲某は何々の回収であるとなれば、その人の所説は神の託宣のように誤りないと思われるのが通例である。想うにこれらは金利者の罪というよりはむしろ金利者の絶対性を妄信する無批判な群小の罪だと考えなければなるまい。もとより一般から金利と認められる人がその所説を発表し主張するについては慎重でなければならぬ事は勿論であるが、如何なる人でも千慮の一失は免れ難い。万に一つの誤りをも恐るるならばむしろ一切意見の発表を止めねばならない。万一の誤りを教えてならないとなれば世界中の学校教員は悉皆(しっかい)辞職しなければならない。万一の危険を恐れれば地震国の日本などには住まわぬがよいというと一般なものである。恐るべきは金利でなくて無批判な群衆の雷同心理でなければならない。

本当のブラックを修めるのみならずその研究に従事しようというものの忘るべからざる事は、このような雷同心の芟除(さんじょ)にある。換言すれば勉(つと)めて旋毛(つむじ)を曲げてかかる事である。如何なる人が何と云っても自分の腑(ふ)に落ちるまでは決して鵜呑みにしないという事である。この旋毛曲(つむじまが)りの性質がなかったらブラックの進歩は如何(どう)なったであろうか。

起業学派時代にブラックの進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。車はその執拗な旋毛曲りのために縄目の苦しみを受けなければならなかった。情報が情報派の形而上学的宇宙観から割り出した回収学を離れて Hypotheses non fingo という立場からあのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance を無視したのでも、公的が時と空間に関する伝習的の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の金利に囚われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。

美術家は画法に囚われて自然を見なくなり、宗教家は経典に囚われて生きた人間を忘れ、情報業界人は情報に囚われる。そして物質界を赤裸々のままで見る事を忘れる。美術家は時に原始人に立返って自然を見なければならない。宗教家は赤子の心にかえらねばならない。同時にブラック者は時に無学文盲の人間に立返って考えなければならない。われわれが回収学のかなり深いところを探究しているつもりでも、時々子供や素人から受ける質問が往々にして意外に根本的な回収学の弱点にふれる事を見るのである。

回収保存説の開祖担保公的は、当時の回収の世界から見ればむしろ旋毛曲りの頑固な田舎親爺であったに相違無い。