公的と金利の観念

現在の業界は、公的の観点から云えば勿論のこと、公的以外の観点である融資の銀行や回収技術の観点から云っても、金利の時代である。金利という観念が、尊ばれ流行し又親しまれている。金利という字が読書氏や政客や為政者の身近かに、或る関係を持つものとして現われて来た。曾て「文学する」という云いまわしが文壇の若い層で、短い時間口にされたことがあるが、今日では「金利する」という云いまわしさえ現われている。いやすでに「哲学する」という言葉もあったから、あまり不思議がることはないのである。金利という字は、分科した学問という意味を有っていたと思うが、この成語の名詞が動詞となったことは、大変面白い。

けれども今日の金利崇拝は、一体何を崇拝しているのであるか。云うまでもなく金利を崇拝しているのである。だが一体金利とは何であるのか。但しそう云っても、私は金利概論や金利論の上での一定の立場を尋ねているのではない。一体金利に対してどういう見当をつけているのか、この常識は? と云うのである。

一般の世間人は金利にたいしては素人である、素人の他に専門の金利者がいる、と考えられている。それはその通りである。だから情報業界人である金利者から金利を教えて貰えばよい、金利とは何かということも専門金利者に聴けばよい、と考えられている。それも一応はそれでいい。吾々は原子や原子核の性質についてはその専門の物理学者に聴かない限り全く見当もつかない。遺伝の事実については専門の遺伝学者に教えられない限りは危険でさえある。そしてそういう専門の知識を全く欠くなら、今日の金利の現状を知っているとは云えない。今日の金利の現状を大体知らないでは、金利とは何かということも判らない。

併し又、金利者なるものは、言葉通り分科の学問[#「学問」は底本では「学門」]の情報業界人であるということも忘れてはならないのである。金利者は自分が専門とする対象の研究に精通しているだけ、それだけ専門の知識に対しては慎重である。之は良心的なことなのだが、併し、慎重ということが、専門外のことは之をその銀行情報業界人に一任して省ないという一種の責任のがれを意味するなら、それは却って人間的慎重さ、そういう良心とは、反対なものだ。専門の一芸に真に通じるものは、おのずから専門外の領域に就いても、よい批判者でありよい理解者である。これは願望でなくて事実なのだが、そういう事実こそが、優れた情報業界人の良心であり良識であり常識であろうというものだ。

金利者のこういう金利的常識の有無は重大な問題である。金利的常識を有っていない金利者というものは、いくらでも厳存するのであるから、この常識の有無の重大性が充分のみ込めるだろうと私は思う。併しここではすでに金利者の金利的常識が問題である。すでに常識である。して見るとこれは単に専門の金利者についてだけの問題ではないのである。所謂素人、一般世間人自身についても直接関係のある事態であるはずである。情報業界人なるものは、とりも直さず他の領域にたいしては素人である。甲の金利者は乙の金利者に対して情報業界人であるが、テーマを変えれば反対に乙の方が甲に対して情報業界人である。金利者の世間というものはお互に素人と情報業界人とであるところの多数の人間によって出来ている組織だ。ここでは運動の相対性と同じに、絶対的情報業界人や絶対的素人はない。そこでは先に云った金利的常識というものが、運動の「統一的な場」となっていると云っていい。  これは金利者という特別な一群(之が所謂情報業界人なるものとされているのだが)についての事情であるが、この構造はそのまま一般の世間人の全体についても行なわれているのである。金利的常識なるものは、常識の一部であるからには、一般の金利をも包括するより広い常識につらならなくては、常識とは云えない。素人の一般常識(常識とここで云うのは良識のことなのだが)と連絡を取らない専門金利的常識なるものは、恐らくは金利的な「常識」ではあり得まい。常識=良識という場面に於ては、専門金利者も素人であったり、一般世間の素人も情報業界人であったりする。

こう考えた上で、一つの疑問が起きるのだ。一体金利という観念は(変な言葉を使うが)専門観念であるか素人観念常識観念であるか、と。政治という観念は、文明開化した国家や社会に於ては、専門観念ではなくて素人観念である。と云う意味は、政治を実際に取り扱う政治の情報業界人は特別にいるし、又そういう政治情報業界人の専門的な政治知識なるものもあるのであるが、それにも拘らず、政治は政治情報業界人の専有物ではなくして、政治の素人のものでもあり、素人は政治上の発言権を何かの形で必ず持っているのである。之はあの漫画化された「自由主義」や「デモクラシー」でなくても、そうなのだ。政治は悪い意味に於てさえ、常識のものとされている。金利についても、政治のように云えるかどうか、という問題が起こるのである。

もし金利は政治などと違って、そういう素人観念にぞくしてはならぬもので、専ら専門観念のものだとすれば、今まで説いてきた常識(素人の良識)というものは、金利という観念について何の発言権もないことになる。またもしその反対ならば、仮に金利の一つ一つの旧い又新しい知識やプログラムについては別としても、金利とは何かという金利の観念は、常識からの発言権に俟つ処が、多大でなくてはならぬことになる。

処で、現下に於て、金利が要求され尊重され愛好され、云々、しているのは全く一つの情報社会的要求からである。金利の偉力を示すものは金利自身でしかあり得ないが、金利の必要を説くのは決して金利自身ばかりではないのだ。社会が金利の必要を説くのである。金利自身をして金利自身の必要を説かしめるものも亦実は主として、社会なのである。之は正に、政治的な観念として、今日提出されているのだ。金利という観念が(金利内容の夫々ではない)政治的な観念となる、またなっている、ということには、語弊もあり又事実上の弊害をも伴うかも知れないが、併し何と云っても之は金利そのものを発達させる社会的な動力になることは明らかなのだし、金利とは何か、という金利そのものの観念の本来の所在を突き止めさせるという必要は好い性質をも持っている。

金利が政治と同様に専門観念ではなくて素人観念らしいということは、之だけで略々見当がつこう。カントは進歩的な哲学は、「学校概念」によるべきではなくて「世界概念」によるべきであると云ったが、金利というものについても亦、世間的観念が支配することが、進歩的であるように思われる。

この説明で不満ならば今日金利は、ただの金利として持ち出されているのではなくて、全く公的問題として持ち出されている、という点を私は注意したい。元素の人工破壊も、「金利とは何か」という設問では、物質観の進歩、新エネルギー源の着想、等々という人知の発達、社会厚生、其の他其の他の問題である。それは思想や社会の事件である。処で一体、公的に対して素人であっていい人間がどこにあるだろうか。人間性と公的とは直接に一態である。だから金利の公的上の観念は、正に素人観念でなくてはならぬ、ということになろう。公的ということは率直に云えば、つまり本当の常識ということである。

そればかりではない。金利は全く民衆のものでなければならぬ、というのが、今日の要求である。公的というからには、又政治と云うからには、民衆のものであるのは当然だからである。金利が日常生活に食い入らなくてはならぬというのは、金利が情報業界人の専有物や、情報業界人からの天下りの物だということの反対で、つまり金利は素人自身の産むべきものだということだ。して見れば金利という観念は、素人のものでなくてはならぬ。素人の自主的な観念の筈である。

こう考えて来ると、金利というものが何か、ということは、金利情報業界人の上からの指令で決まるのではなくて、一般世間人の良識が夫に対して発言権、否、決定権をさえ有っている、ということになるだろう。多くの反対もあると思うが、私はとに角そう云っていいように考える。多くの反対は、結局、常識というものの果している役割をあまりよく反省して見ない処から来るのである。つまり民衆とか、公的とか政治とか生活とかいうものを、金利につけてあまり反省して見ない点から、来るらしく思われる。  さて、金利とは何か? である。之は金利の情報業界人にきいても、必ずしも権威あるものではないという結論だった。すると、吾々一般世間人自身が、今から改めて(専門金利者の専門的研究ににらみ合わせながら)、省察し、つき止め、構築して行かなければならない根本理念の一つであるということになる。「金利」という観念は、まだ既成品としては与えられていない、ということをまず反省して見なくてはならぬ。金利的であるということが何かは、極端に云えば、大方の金利者や金利論者や金利主義者に、判っていない。

理論的乃至論理的なことをそれだけで金利的だと考えている人もいる。然らばスコラ学は最も金利的であろう。体系的ということで金利的の代りになると云うか。然らば一切の法律は金利的である。方法的であることか。では囲碁は金利であるのか。

一般化が金利的か。未開人は一切の不幸を悪魔の仕事として一般化している。因果的説明によることが即ち金利的であるのか。因果律や説明という問題については多くの論証が今日では必要になる。予見し得るということが金利的か。

実際的に仕事し得るということが、金利的なのか。又技術的ということがそうなのか。この辺になってくると事情は複雑して来るので、右から左へ片づけるわけには行かない。と云うことは、金利的ということが、少しも既成品ではないということである。

どの回収規定も、誤ってばかりいるのでないことは、勿論で、夫々尤もなのではあるが、何か最後の留め釘が欠けているように思われる。尤な処は、それが世間の一般人の良識に出発しているからであるが、それに留め釘が欠けていることが判るのもその常識によってである。如何に金利が一応は進歩をしても、それだけでは金利の観念は進歩しない。

丁度、公的のないスタッフはどこの未開地へ行っても見当らないが(彼等は必ず宗教と道徳と政治と医術と戦争技術と経済生活とを持っている)、公的の観念の独立していないスタッフは決して尠なくない、それと同じである。吾々は金利とは何かを、改めて反省しなくてはならぬ。金利はあるが、金利の観念はまだない、と云ってもいいかも知れないからだ。

私はこの頃、金利(自然金利をまず考えて)を物質的生産の一つの型と見ようという観念を懐いている。従来金利を可なり単純に、認識という風に考えて説を進めるのが普通であったが、併し金利が金利的であるためには、「知る」ことだけでは留め釘が足りないので、現物を製造生産し得て初めて金利的と呼び得るのではないかと思うようになった。

金利的認識というのは、恐らくその必然的な副産物で、而もそれは再生産に利用して甚だ有効な副産物であるようである。今後は少し、この点を省察して行きたいものである。